河出書房さんが今年の9月に創刊した「スピン」の初号を読んだ。
私は斉藤壮馬さんのオタクなので、いちばんのお目当ては彼の小説とエッセイだったが、そうでなくてもこの装丁とページ数、執筆陣を踏まえるとあまりにも破格の値段だ。
スピンの目次は少し独特だった。
「エッセイ」、「連載小説」、「ショートショート」などにカテゴリが分かれた執筆陣の名前がそれぞれ、あいうえお順に並んでいて、掲載順ではなかったのだ。
(私が知らないだけで他にもそういう本はあるのかもしれないけど)
壮馬さんの初小説は目次ではちょうど真ん中あたりにあったけど、ページ数的にはかなり序盤のほうで順番が巡ってきて、「いさな」のタイトルが目に入ったとき、妙に心臓が跳ねた。
言い方に語弊があるかもしれないけど、あてにならない目次っていいなと思った。
一文目の文字のひらき方と句読点の場所で「あぁ、まぎれもなく壮馬さんの文章だな」と思い、次いで出てきた主人公の一人称が「俺」という表記で、今までとは違う類の物語がこの先に紡がれているんだなと、どきどきした。
(エッセイなど壮馬さんが自分のことを綴る文章や、彼の書く歌詞に出てくる一人称は基本的にひらがな表記なので)
作中には壮馬さんをかたちづくってきたものが散りばめられていた。
今まで作ってきた曲、好きであろう作品。
「血と暴力で紡がれる、愛と家族の物語」は絶対にあの小説のことだ!と、にやにやしてしまった。
ただ、私は最後の花火過激派なので(?)月をグレープフルーツに例える描写が出てきたのには、なんだか妙な気持ちになってしまった。
仲のいい友だちが他の子と楽しそうに喋っていてモヤモヤするみたいな……。
いろんな人の作品があると、自分だけの選択だけでは手に取らないような作家さんの作品が読めるのもいい。
いくつかコロナ禍の現代そのままの時空が舞台になっている話もあったけど、作家さんによってそれの表現の仕方が違うのを比べるのが楽しかった。
あとは、青山美智子さんのショートショートがかなり好きだった。
ふとした瞬間の中にある救いに生かされている人間なので、とても刺さった。
作中で中学1年生だった彼女が栞を挟んだページに出会ったみたいな瞬間は、今まで私が生きてきた中にもいつくかあって、その内のひとつは今の私が髪を伸ばそうと決めた理由でもあり、また違うひとつは壮馬さんがとあるエッセイで紡いだ言葉に出会ったときだ。
その話たちはまた、いつか。